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「エミリー・ローズ」

荒涼とした土地に建つ一軒家で、明るく聡明な女子大学生だったエミリー・ローズが、悪霊に取り憑かれ、変わり果てた形相となって死亡。そして悪魔祓いの儀式を行ったムーア神父が、過失致死罪で告訴されることに。宗教的な対処ではなく、精神医学の治療によって彼女を救うべきだったという世論によって。
悪霊に取り憑かれた状態というのは、精神医学のうえで類似した症例があって、投薬によって回復の見込みがあったにもかかわらず、脳の機能を一部麻痺させるクスリの効能が悪魔祓いの効果を妨げるという理由で、神父がクスリの服用を中止させたのが「罪」というワケ。実際は、エミリー自身がクスリの服用を断ったのだけど。
エミリーは本当に悪霊に取り憑かれていたのか。精神医学で救うことができたのか。悪魔祓いの儀式の失敗が、エミリーの死の直接の原因なのか。

悪霊に取り憑かれた少女といえば、オカルトというホラージャンルの映画になるのだけど、「エミリー・ローズ」が描くのは、事件の真相を裁判によって明かしていくという法廷劇。それが新鮮。だからストレートなホラー映画では到達しにくい境地へまで、結末を持って行くことができた傑作となりました。

法廷劇とはいっても、やっぱりコワイんですけどね。過剰な恐怖演出でなく、理論的な展開の中で目に見えない邪悪な気配を描くのだから、妙にリアルなコワサがあるんです。
なんといっても、映画の冒頭「この映画は実話に基づいている」とテロップが出ますからね。
1970年代に旧西ドイツで実際に起こった事件がベースになっているんです。

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キリスト教の悪魔祓いを世間に知らしめて、オカルト映画というジャンルを確立させた「エクソシスト」が制作されたのが1973年。「エクソシスト」は、1949年メリーランド州で起こった14歳の少年に起こった事件をベースに書かれた同名小説の映画化です。
映画「エクソシスト」と「エミリー・ローズ」の元となった事件の関連性はなにかしらあるのかな。悪魔祓いというものへの注目度は違っていたかもしれませんね。
社会的な影響といえば、数年前から悪魔祓いの需要がすごく伸びてるらしいんです。精神疾患に当てはまるものも多く含まれているようですが、バチカンもこの状況を受けて、悪魔祓いについての特別講座をいくつかの神学校で開いているらしいですよ。

「エミリー・ローズ」は、一般のホラー映画を見終わったのと違う余韻を残す映画ですけど、エンド・クレジットが流れている間、どうにも自分の中で納得しきれないものが去来してたわけ。それは、映画の作りについてのつっこみではなくて、悪霊というものは存在すると思うのだけど、なぜエミリーに取り憑いた悪霊は、きちんと聖書世界の設定に沿っているのだろう?
悪魔祓いには、憑いている悪霊の名前を問うのがお約束ですが、悪霊って本名を名乗るものなのかな。
自分にとって都合のいい有名な悪魔を名乗ってる場合はないのかな。悪霊に真実を迫るのもどうかと思ってしまうのですが、それって推理小説でトリックが暴かれると、犯人はうそを言わないというルールに近い「様式」みたいに思えちゃうんですよね。
神の存在を絶対的にするために対極にある悪魔の存在を絶対的とするキリスト教の設定が、あいまいさに潜む可能性までも単純に2分化しているようで、釈然としないのです。
取り憑いている悪霊が異教のものだとしたら、キリスト教ではどのように処理するのだろう。日本にも狐憑きを祓う儀式があるように、キリスト教圏でない世界でも儀式として「悪魔祓い」は行われていますから。

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最後に話を映画にもどしましょう。
エミリーに異変が起こりはじめた頃の描写が、本当に邪悪な存在のせいなのか、精神疾患のせいなのか、判断がつかないように描いているのがリアルだなぁと思いました。
生前のエミリーの言葉から再現される主観的な部分では、確かに超自然な力によって支配されている様子を描きます。でも大学構内での第三者の証言などから再現される客観描写の部分では、精神疾患の症状に見えるのです。この描き分けは、面白かったなぁ。客観描写部分では、独特な色彩設計やカメラワークによって、「サスペリア」を作ったスタイリッシュ・ホラーの帝王ダリオ・アルジェントの作品みたいな味付けがされているのもお楽しみです。
エミリーを演じたジャニファー・カーペンターの熱演がすさまじいの一言。野心家の女性弁護士ローラを演じたエリン・ブルナーの、自信と恐れに揺れながら凜としている演技もよかった。

こういう裁判の陪審員に任命されてしまったら、どういうジャッジを下さなければならないか、すごい考えものです。
「ブロークバック・マウンテン」と同じ日に鑑賞したのですが、2作に共通しているのがキリスト教という信仰から生まれる弊害と生きている人間の愛というのが、興味深いところでした。


(2006年4月9日・TOHO Cinemas 六本木ヒルズ)

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エミリー・ローズ公式サイト
「エミリー・ローズ」公式ブログ

<関連記事のリンク>
→「エミリー・ローズ」に関して、悪魔憑きの精神医学的な立場からの記事が興味深い、『シカゴ発 映画の精神医学』BLOG記事


●かなり前に読んだ本ですが、講談社プラスアルファ文庫から出ている上田紀行 (著)「悪魔祓い」がかなり面白かった。スリランカでの調査から、悪魔に出会うことで「生」を取り戻していく「癒し」をプロセス化した悪魔祓いの儀式を、文化人類学の立場から分析しています。
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  by tzucca | 2006-04-22 15:34 | → MOVIE

「ブロークバック・マウンテン」

a0028078_222669.jpg映画を観てから10日あまり。染み入る余韻と押し寄せてくる感情、いろいろ考えさせられちゃって、すぐにはレビューを書けなかったよ。
(たんに忙しかったってのもあるけど)

1963年の夏。アメリカ西部、ワイミング州ブロークバック・マウンテン。羊の放牧を監視する仕事を任された2人の青年。
美しい大自然と画面を埋め尽くす羊の群れ。厳しい山の生活が、2人に強い友情を芽生えさせ、やがてそれは肉体関係へと。2人で過ごしたブロークバック・マウンテンの時間が、その後20年におよぶ2人の関係と、現実の生活から逃避する拠り所となっていく…。

今年のアカデミー賞で監督賞、脚色賞、オリジナル音楽賞の3部門受賞。作品賞を逃したことが、受賞した作品よりも大々的に報じられる結果に。
ゴールデングローブ賞主要4部門、ヴェネツィア国際映画祭グランプリ<金獅子賞>受賞ほか、アカデミー賞以外の権威ある映画賞をみごとに総ナメにした、2006年を代表する映画です。

男同士の純愛というテーマながら、決してスキャンダラスな描き方ではなく、人が人を求めるキモチと葛藤、変えることができたかもしれない過去、変えることができなかった現実を、静かに繊細に描き出していきます。アン・リー監督の、ココロの描き方が絶妙なんです。そして雄大な自然が哀しいまでに美しいのです。
すばらしい映画でした。その一言に尽きます。

でも、娯楽映画ではないし、世界は自分を中心に回ってると勘違いしてる人には、さっぱり分からない映画かもしれません(笑)

男同士の友情と恋愛の境界線って、たしかに存在はしているけれども、決してどこまでも続く高い塀ではないと思うのね。たぶん、女性が思っているよりも、その境界線ははるかにあいまいなんだと思います。
あと、家庭や仕事に疲れて「僕の人生はこんなだったのか?」と目の前の現実が色あせてしまうような時、まだ夢や希望に満ちていたある時期や場所を「聖地」のように心に秘めることって、男なら誰にでもあることだと思うんですよね。
そんなキモチに思い当たる人だったら、人生で一度は観ておくべきかも。内容が分からなくても、極上の映画というものを味わっておくべきです。

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さて。以下はネタバレもあるので、ご注意を。

2人の青年、ジャック(ジェイク・ギレンホール)はゲイで、イニス(ヒース・レジャー)の方はノンケに近いバイセクシャルだったと僕は感じました。
2人しか存在しない、お互いの存在を強く意識するしかない、ブロークバック・マウンテンで過ごした日々。そんな環境のなか、片方に受け入れる準備さえあれば、人肌の恋しさから一気に性衝動が起きたとしても不思議じゃないよなぁ。唐突に思える一線を踏み越える瞬間も、2人しかいない世界で、一瞬の躊躇はあっても同性として遠慮はいらないだろ?って了解が瞬時に交わされて、衝動を抑えきれなくなっていく様子がリアルに感じちゃった。
でもね。いくらジャックがゲイで、行為に慣れていたにしても、そんな急に受け入れちゃって痛くないの?と余計なことを考えちゃったけども(^^;

翌朝、ちょいと気まずい雰囲気になる2人。ありがちです。「昨夜のことは1回きりだ」そう切り出すイニスだけど、夜のテントで裸のジャックを前にすると、自然に抱き合うんだよね。それが、ほんと、余計なセリフで説明しなくても、すごく自然なの。
一線を越える前、ジャックの背後で、仕事を終えてテントに戻ってきたイニスが全裸になって着替えるという1カットがあるんです。何の意識もしていなかったら、普通に振り向いて会話しててもいいのに、ジャックは前を見つめて決して振り向かないんだよね。なんて繊細な描写なんだろうと思いました。ほかに映像面、色彩設定でもすごく丁寧な作りをしているんだけど、長くなりすぎるからやめとこう(笑)

イニスには、ゲイに対するトラウマがあるのね。それは、幼い頃父親に連れられて、リンチで殺されたゲイの死体を目にしたこと。さらにその行為の首謀者が父親だったというショック。
今でさえ保守的なアメリカ西部だから、1963年のゲイに対する差別は相当なものだったのでしょう。
「聖書に書いてあるから」という理由で同性愛を認めないキリスト教徒が、人を傷つけてはいけないという教えに背きながらも、正しいことをしていると思いこんでゲイ・バッシングするという矛盾。今でさえ、そうなんですね、ブッシュを支持している地域では。

山を降りてからの2人。イニスは結婚し、貧しい家庭で双子を育てていきます。ジャックはうだつの上がらないロデオの選手から農機具販売で成功している父親を持つ西部美人と結婚。
生活のために働き、子供の面倒をみて、自分の人生が自分のものでなくなっていくのを受け入れていくしかない日々。

4年後、イニスとジャックは再会します。
ジャックの到着を家の中でそわそわして待つイニス。車が止まる音を聞いて玄関を飛び出すと、再会の喜びに抱き合って、激しくキスを交わします。この再会でイニスの中にスイッチが入ってしまったようです。封印していたはずのスイッチ。厳しい現実から一時逃れることができる魔法のスイッチ。
たまたまその光景を目撃してしまったイニスの妻。田舎娘で平凡な家庭しか世界のない妻に、その光景は理解のできないこと=裏切り行為にしか写らなかった。当然かもしれないけれど、悲しいことです。

それから年に数回、時には数年おきに、2人はブロークバック・マウンテンで数日間を過ごし、関係を育てていきます。逢瀬であると同時に、1963年のあの夏を追い求めているかのように。

生活をほっぽり出して、嬉々として男2人でレジャーに出かける。
女房たちは、どう感じる?
すべてがオーライではないけれど、なんだかんだ、人生をうまくこなしているジャックに対して、イニスの生活はどんどん荒んでいきます。せめてイニスの家庭が、癒しの場であり心から守っていきたいと思えるものであったなら、イニスの生き方も変わっていたかもしれないのに。

ジャックが切り出した、家庭を捨てて、2人で牧場を経営しようという夢。イニスはそのアイデアには乗れません。家庭があるからという現実的な理由よりも、男2人での生活=リンチで殺される対象というトラウマから逃れられないから。
だからイニスが離婚して、家庭という束縛から解放されても、2人の関係は変わらないまま。
20年の時が経過して、ついに想いのたけをぶつけたジャック。変えられたかもしれない過去、何も変わらなかった現実。ジャックの感情はイニスの抑え込んでいた心の石をも動かしてしまった。お前と出会わなかったら…自分の人生は…と泣き崩れてしまう。
後悔ではなかったのだと思う。イニスの人生にとって、どういう関係であれジャックという存在は必要だったのだと思う。ただ、背負うものが重すぎてイニスにはどうすることもできなかった。

ラストのとても穏やかなイニスの表情が哀しいんです。こういうカタチでなければ、イニスが重荷を降ろして愛しあえなかったことの哀しみ。
いつも2人の心にあったブロークバック・マウンテンの風景。
ジャックの妻が「実在しない理想郷のことを言っているのだと思っていた」というブロークバック・マウンテン。
その風景の絵ハガキとともにしまわれたジャックのダンガリシャツ。時を止めて、本当に愛し合った1人だけを愛し続けるだけでいい人生を、ハッピーエンドと呼んでいいのだろうか…。
口づけを交わした幸福の絶頂で「THE END」になるようなおとぎ話ではなく、人にはその後の人生もきっちりあるわけで。「THE END」の先につづくラブストーリーは、熟成されながらもほろ苦かった。
あらためて、自分自身と愛する人を、どうやったら愛し続けていけるだろうかと考えさせられたのでした。

僕は、どちらかといえばイニスに近い男だし。。


(2006年4月9日・日比谷シャンテ シネ1)

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「ブロークバック・マウンテン」公式サイト

アップル・QuickTimeムービー「ブロークバック・マウンテン」予告編

ブロークバック・マウンテン@映画生活

<関連記事のリンク>
ブロークバックの衝撃2
「ブロークバック・マウンテン」は今後のハリウッド史の中で「アカデミー作品賞を与えられなかったことが衝撃を与えた作品」として、長く語り継がれるだろう映画である
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  by tzucca | 2006-04-19 01:49 | → MOVIE

映画「ニュースの天才」

ヒューザーの耐震強度偽装問題、虚偽の企業買収情報を公表したとされるライブドア事件、テレビを賑わすニュースに踊る「偽」という文字。なぜ人は偽るのか?いけないことなのは分かっているのに。それはね、人という存在は元々弱いものなんですよ、なーんて達観した答えすらもピントはずれに感じちゃう現実的な波紋。
というわけで。「ニュース」と「偽」つながりで、今回は「ニュースの天才」という映画の紹介。
2004年の年末に公開された、実話を元にした映画です。

a0028078_0521338.jpgアメリカ大統領専用機内に唯一設置されている権威あるニュース雑誌「THE NEW REPUBLIC」。
政治的論評を売りにしていたこの堅い雑誌の中で、最年少編集者24歳のスティーブン(ヘイデン・クリステンセン)は、人が感動したり怖がるものを探し当事者の目線で書く記事によって人気記者となっていった。それでも彼は、安月給でハードワークな仕事ながら、同僚への気配りを忘れず、笑顔を絶やさず、その人柄から編集部内でも厚い信頼を得ていたのだった。

ところが、スティーブンの書いた「ハッカー天国」という記事について、「フォーブス・デジタル」の記者アダムが内容を詳しく調べようとWEB検索をしてみたところ、記事内に登場するソフトウェア企業やハッカーの名前がヒットしてこない。そんなバカなことが…。権威ある一流誌にねつ造記事疑惑が浮上する。

「THE NEW REPUBLIC」では、信頼を得ていた前編集長がクビとなり、新編集長チャックが就任したばかり。はじめは編集長の勤めとして、記事の裏付けをとろうとスティーブンに情報元などを確認したが、やがてスティーブンの態度に信頼性を欠いたものを見出していく。



記事内容の裏付けや弁護士のチェックを厳格に行う一流誌の編集過程で、なぜねつ造された記事が通ってしまったのか。スティーブンの職場での人柄が、チェック機能を甘くしていたのか。
外面(そとづら)がいいスティーブンですが、この局面に対して「自分は悪くない」を連発し、「編集長ならなぜ記者を守ろうとしない」とキレるあたりで、甘ったれの自己愛野郎だというのが露見してきます。一見いいヤツだと思われていた人間から、どうしようもない本性が見えてくる件を、「スター・ウォーズ」でアナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)を演じたヘイデン・クリステンセンが好演。さすが、内にあるダークサイドを演じることができた男だけはある!
冷静に真相と向かい合い、「THE NEW REPUBLIC」を守ろうとする編集長チャックを演じた、ピーター・サースガードもすごくいい感じでした。

あきらかな嘘を編集長に見透かされても、ごまかしたり自分以外のせいにするスティーブンを観ていると、情けなくなってきます。でも身近にそういう人間っているもんじゃないですか。そう、あなた自身とかね。僕自身ともいえる。
けれども、僕だったらねつ造記事は書かない。自分の仕事と自分の能力に誇りを持っていたいから。
この映画でも、スティーブンを中心にしながら、他の編集部スタッフの仕事に対する姿勢もしっかり描いています。「権威ある雑誌を作る仕事」にプレッシャーを感じながらも誇りをもっています。業種は違えど、自分の属するWEB制作の現場と近い部分もあって、スタッフ同士や上司と部下のかかわりなど、すごく興味深く観てしまいました。

実際に起きた記事捏造事件の忠実な映画化ですが、事件そのものを映像化するのであれば、TVドラマや報道の再現ドラマの方が、よりリアリティが出たのではないかとも一瞬思いました。なぜ映画にしたのか。TVでやったとしたら、リアリティという錯覚の上に必要以上にドラマ性をプラスしてしまうかもしれないから?スキャンダル性やサスペンス性を強調しちゃうかもしれない?

集中して一気に見せる映画だからこそ、スティーブンのダークサイドを見抜けなかった現場スタッフと同じ気持ちで事件を目にすることができるのでしょう。そして、ねつ造記事を27本も見逃してしまった「THE NEW REPUBLIC」が抱えた傷も。そこで働くスタッフや編集長をもきちんと描くことで、ラストで彼らが示したアクションに説得力が出るわけだから。
母校のクラスで講演するスティーブンこそ、この男の薄っぺらなダークサイドだったことも。

野心があっても悪気がない。
プレッシャーを受けつつも、ショートカットで成功することをまず考える。
ねつ造する想像力はあっても、発覚した時のダメージを想像しきれない。
そうさせたのは外部の力であって、自分が悪いわけでは決してない。
タイトルは「ニュースの天才」でも、彼は「天才」ではありませんでした。

「ニュースの天才」
2003年アメリカ映画・94分
製作総指揮の一人にトム・クルーズ。

「THE NEW REPUBLIC」誌の公式サイト

◆スティーブンの記事「ハッカー天国」の内容を検証し、事実と異なることを突き止めた「フォーブズ・デジタル」のアダム記者は、その後「HOT WIRED」のライターをしているようです(いかにもですね)。その「HOT WIRED」に、アダム氏が「ニュースの天才」の内容に触れた記事がありました。
「メディア検証コラム:増大する報道不信、変わらぬ影響力」(2004.6.30)
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  by tzucca | 2006-01-23 00:49 | → MOVIE

映画「山の郵便配達」

a0028078_132081.jpg土曜の深夜にフジテレビでオンエアされているアニメ「蟲師」を観たことある?
原作のファンは多いけど、アニメ版「蟲師」も素晴らしい出来ですよ。
静かで、しっとりとした展開。美しい画面。山や生い茂る木々、湖や海、まだ人が自然とともに生きていた頃の話。村落を渡り歩く蟲師・ギンコが巡り会う人々との情緒あるエピソードが、なんともいいんだ、溶きほぐされるんだ。
ということで。大きな木箱を背負って山道を歩くギンコつながりで、映画「山の郵便配達」でございます。

いい映画です、これは。静かな静かな映画なんですけど、なにか大きなものをもらったような気分になりました。いつものように、演出や構成がどうのう言う必要はありません。ただ画面に写っているものを、そのまま受け入れればいいんです。

舞台は、1980年代の初め、中国湖南省西部の山岳地帯。
山里に郵便物を集配していた男が、年老いて足を痛め、その仕事を息子に引き継ぐことになりました。
郵便物の入った大きなリュックを背負い、3日間で120キロ近い山道を歩きつづける仕事。

40キロ歩くと天車嶺、それから望風坑、
次の九半龍で1泊、翌朝は寒婆拗へ
揺掌山を越え大月嶺まで40キロ
3日目は一気に山を下りまた40キロ歩く

父は、こんな辛い仕事は自分の代でお終いにしていいと考えています。公務員ですから、息子はどんな職業に就いてもいいと。でも息子は、父の仕事を引き継ぐことを希望しました。映画は、まだ夜が明けきらぬ早朝、はじめて仕事に出る息子に父がいろいろアドバイスを与えるところから始まります。
息子が歩き出そうとした時、旅のパートナーとなる犬「次男坊」が、父から離れず息子の後を追わないことから、父も同行することに。最後の山歩きです。

何キロ歩いても人と出会わないという、山間の壮大な風景。静かな時の流れ。
仕事のプロセスを知ってはいても、それがどんな仕事なのかを初めて体験する息子。預かっている郵便物をカラダを張って守り抜くこと、自分のカラダを気遣い歩きつづけること、辛くても愚痴を漏らさないことなど、一緒に歩きながらリアルに仕事を伝えていく父。
仕事のため、父はほとんど家を留守にしていました。だから父と息子はゆっくり一緒に過ごすことなど、これまでありませんでした。この引き継ぎの旅で、父と息子はお互い心にしまっていたキモチを溶きほぐし、距離を縮めていきます。

シンプルなストーリーでしょ。でも、ここには人生の中でもっともドラマチックな出来事が凝縮していたんです。父にとっては、現役引退のセレモニーでもあるわけです。照れくさいのか、立ち寄る山里の人々の感謝と残念がっている注目を、引き継ぐ息子に向けさせるんですよね。そしてこれまで父に代わって家と母を守ってきた息子が、家の外に出て父の仕事を理解することで、父親に対する認識を再構築していくんです。自分が愛されていなかったわけではないことも分かり、はじめて素直に「父さん」と呼べるようになったのです。
そして翌日は帰路となる2日目の夜。父がこれまで知らなかった家での生活に必要な情報を今度は息子が伝えます。
代が替わり、家族の絆が結び直されました。

僕ね、過去に何度か書いたんだけど、父と息子の話に弱いんですよ。
小さい頃はかなりカラダが弱くて、ちょっと変わり者の芸術系な息子だったから、父にとっては一緒にゴルフへ行けるような弟の方が望んでいた息子だったんだろうなぁ、って。なのに、息子という身分をいいことにわがままや苦労ばかりで、何も返してあげられないまま永遠の別れを迎えてしまいました。
後になってから、それでも気にかけてくれてたんだ、って分かることがいろいろあって、それがありがたくって。
この映画の中で、息子の様子をうれしそうに眺める父、息子に背負われて川を横切っている時に涙ぐむ父の顔を観ていると、思わず涙ぐんじゃいましたよ、僕。やばい。

これは誰しもが観たいと思う映画ではないかもしれません。でも多くの人が出会ってみたいと思っていた映画なのかもしれません。仕事の引き継ぎが必要な人、自分の仕事に迷いがある人、安らかな静かな映画を観てみたいと思っている人にはおすすめです。
(静かな映画だと寝ちゃう人には、ぐっすり眠れる映画でしょう…)

「山の郵便配達」
■1999年中国金鶏賞(中国アカデミー賞)2部門受賞
■1999年モントリオール映画祭観客賞受賞
■2000年インド国際映画祭銀孔賞(審査員大賞)受賞
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  by tzucca | 2006-01-22 01:03 | → MOVIE

映画「バッド・エデュケーション」

a0028078_1957584.jpg「美」という言葉を多用したがるボーイズ・ラブ大好き女子向けって印象が強かったので、いつかWOWOWでオンエアされたら録っておくか程度に思っていた映画だったのですよ、実は。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」で気に入ったガエル・ガルシア・ベルナル君つながりで、観ておかねば!リストのランクを一挙にアップさせたのでした。監督は、世界的巨匠で変態さんのペドロ・アルモドバル監督だしね。僕が観てない方がらしくないよね。

ストーリーは、次回作のねたを探している若い映画監督エンリケ(フェレ・マルチネス)の元に、元同級生だったというイグナシオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が訪れたところから始まります。イグナシオはアンヘル(天使)という芸名で役者をやっていて、「次回作で役をくれないか」と売り込みをしつつ、自分で書いたという脚本を置いていきます。部屋を出て行くイグナシオを見送ってエンリケが一言「初恋の相手だった」。ここから、ごく当たり前のように男が男を求め合う世界に突入していくわけ。

イグナシオが置いていった脚本「訪れ」に目を通す監督エンリケの頭の中で、もうひとつの映画が展開していきます。主役は女装のガエル君。ゴルチエのドレスを身にまとい、ヒップからゆっくりカメラが上に向かっていくと現れる、びっくりするほど美女となったガエル君。ここで歌われるのは「花様年華」で印象的に使われていた「キサス・キサス・キサス」。なにげにアルモドバル監督とウォン・カーウァイ監督は、選曲がかぶっていて面白い。
女装のガエル君(名前はサハラ)が今夜のお相手に選んだ男は、かつて教会の学校で一緒だった"恋人"エンリケでした…。そこから映画の中の映画で展開する少年時代の回想シーンが始まります。

1本の映画の中で、入れ子状に展開するストーリー。その構成はたしかに凝っているんだけど、女装が見事なガエル君を楽しむ以外、目新しい展開ではないんだよね。少年時代のシークエンスは、萩尾望都や竹宮恵子の少年愛コミック(例で歳がバレちゃうね)を読んできた人にとって、「それはそうよね」という定番な展開。
観る前に思っていた「ボーイズ・ラブ大好き女子向けな映画」そのまんまじゃんと思い始めた頃、40分くらい経ってからかな、アルモドバル監督が今更そんな映画作るか?と気づき始めたわけ。
人間の深いところにある想いや哀しみ、人生の残酷な面を巧みに描き出すことができる監督。たとえばミスチルの桜井さんが、今更「愛さえあれば人生これオール・ハッピー」な歌詞なんて書くわけないだろ、って感じに近い確信。

映画が後半になると、その確信は見事に的中。アルモドバル監督、一筋縄ではいきません。
前作「トーク・トク・ハー」で思い知らされた、語り口の巧みさに改めて恐れ入ってしまいました。
少年時代、神父に性的行為を強要され、やがて女装の男となった青年が、かつて恋心を抱いていた同級生を助けるために、神父のしたことを小説にしてゆすりに行く。映画の中で制作されていく映画ではそういう筋書きだった出来事が、現実はどうだったのかが解き明かされていくうち、人間の哀しみや人生の残酷さがしっかり浮き彫りにされていくんですよ。

若い時にカッコよかったヤツが、髪が薄い太ったおやじになっているのを見て「時って残酷」と思う時があります。当人にとっては長い年月の人生の結果にすぎないのだけど、過去の姿の幻影を思い描いて現実と直面した時、そのギャップにショックを覚え、勝手に自分がイメージしていた幻影のやり場に困惑することってありませんか。
時って残酷。「訪れ」が持ち込んだものは、自分は自分であるしかないことの再認識。
そしてもうひとつの残酷。かかわりのある人から「邪魔な存在」とレッテルを貼られること。自分の幸せをつかむために、その「邪魔な存在」を消しにかかる考えに取り憑かれること。
映画のタイトル「バッド・エデュケーション」は、すべての元凶となった神父の行為(=悪い教育)を指してますが、映画が描くのはその後の人生の行き先。

入れ子状に展開する少年時代以外のストーリーすべてに登場するガエル君。見事な演じ分けに役者魂をみました。女装が見事なだけではありません。
エンリケ監督を演じたフェレ君もいい感じです。野心家の役者アンヘルとして現れたガエル君が、かつての想い人だと分かった時の瞳の輝き、下心むき出しの視線。それが本心を出さず目的の分からないアンヘルに対して、しだいに視線が冷たく冷めたものになっていく変化。クリエイターらしい繊細さが加わって、アルモドバル監督の分身であるかのような錯覚を与えてくれました。

なんだかすごく長い文章になっちゃいました(苦笑)
あとちょっといい?アルモドバル監督の作品は、スペインのアート感覚も炸裂しています。ポスターが次々と破れていくグラフィックスがカッコいいタイトルバック。クリエイターはホアン・ガティという人。他にも部屋のインテリアの色遣いなど、人物以外にワクワクする部分がてんこ盛り。人物の光のあたり方が美しい!

そうそう!DVDのアルモドバル監督自身のコメンタリー音声で、2度目の鑑賞までしちゃいました。僕の映画の見方って、どっちかというと演出寄りなものだから、すごく勉強になりました。
その中で、神父と会話する女装のガエル君を「ジュリア・ロバーツみたいだ」とコメントしていたのですが、僕は「エロイカより愛をこめて」のエロイカ伯爵みたいだと思いました(またしても歳がバレる) 裸体姿もいっぱい見せてくれてますが、「君、首がちょっと短いのね」ってのが分かった。僕と同じだ(笑)
あと監督コメントでは触れていませんでしたが、ガエル君のアップで、やたらカメラ目線が多いのも特徴的な撮り方でした。これはポイント・オブ・ビューという「羊たちの沈黙」でも多用されていた手法。観客と視線が合うことで、直接語りかけてくる独特な緊張感を生み出すんですよね。「モーターサイクル・ダイアリーズ」で印象が強かったガエル君の目力が、この作品でもすごく発揮されてました。

BLOGのレビューをあちこち見ていても、あんまり大絶賛はされていない作品ですが、僕的にはかなり思い入れできる作品。ゲイの描写についてばっかり書いてるレビューは、「ハウルの動く城」でキムタクの声優ぶりがどーのこーの言っているような感じで、「で?なに?映画については?」ってものが多かったんだけど、普通の人はそっちに全部持って行かれちゃうものなのかな…(^^;

「バッド・エディケーション」公式サイト
・第57回カンヌ映画祭オープニング作品・ニューヨーク批評家協会賞外国語映画賞受賞
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  by tzucca | 2006-01-21 18:41 | → MOVIE

映画「Mr.&Mrs.スミス」

a0028078_1274399.jpg殺し屋の男と女がお互いの正体を知らずに結婚。だけどお互いの正体が分かった時、身元がバレた相手を48時間以内に消せという規定に従い、殺し合うことに!
っていう、CMや予告編でやってる通りのお話なんですけどね。
殺し合うって言っても、アニメのアクションみたいというか、昔で言えば「007シリーズ」みたいな感じ。ガンアクション部分はやっぱり香港ムービーなのかな。難しいこと考えずフツーに面白かったですよ(^^)

アクションや武器のギミックもいいんだけど、つまんなそうな夫婦生活の合間にお仕事をサクッとこなしていくところが笑えるんだよね。あはは、あんたたちおもしろーい。どーしてそこまでして夕食の時間に帰ろうとするのサ!(^^)
現実的にはありえない設定ではあるんだけど、夫婦ってどんなもんよ?って部分にけっこうリアリティがあって、男脳と女脳の違いを分析する本みたいに「なるほどねー」とか「そうなんだよねぇ」っていう描写が楽しいの。

正体が分かってからは、アクション全開。お互いトップレベルの殺し屋なんで、たんなる結婚相手からリスペクトが加わってきて、だんだんアスリートのペアみたいになっていくんだよね。その過程にある、一緒に暮らしてきた相手を仕事のレベルで分析して見直してみるというのが、新鮮な視点かも。

破壊され尽くしたマイホームからの逃走が、2人とも下着姿というのがイイね!
ブラピとジョリーというセレブ中のセレブが、スリリングなカーアクションをトホホな格好でやってのけちゃうあたり、SMAPが「SMAP×SMAP」でアホなコントやるのと同じような意外性と余裕です。

知っての通り、僕はブラピのファンなんで、そこそこの出来だったらブラピが出てるだけでもうOKなんです(^^; それでも最近のブラピ出演作の中では、一番よくできた作品じゃないかな。アンジェリーナ・ジョリーとのペアがともかく正解。女優としては、最初にキャスティングされていたニッコール・キッドマンの方が好きなんだけど、キッドマンじゃこんなにうまくいかなかったと思う。キッドマンじゃノースタントでここまでのアクションできなかっただろうし。

今のブラピ様ってイケメンとは言えないんだけどさ(笑)、セクシーなボディでやんちゃなオトナの男ってのが、とにかく魅力的。個人的には「セブン」「ファイトクラブ」のちょっとダーティなブラピ様が好みではあるんだけど、この作品のコメディ・センスはいい具合にツボだったみたい。男ってONもOFFもクールなわけじゃなくて、ここ一発っていう時以外はけっこうしょーもない生き物。そんな2面性を、へーぜんと演じてたのが良かった。

この映画のポスター・デザインは、最近の映画では一番のセンスですね。ブラピとジョリーの立ち姿が、なんと絵になることか!今後、夫婦であることをアピールする男女のデザインといえば、このポスター・デザインがテンプレート化していくことでしょう。と思っていたら、今年の年賀状でさっそく夫婦でパロディしている友人がおりました。なーいす!(^^)
@このポスターが貼られ始めた頃って、この映画をヒッチコックの「スミス夫妻」のリメイクものだと思っていたのでした(^^; 全然カンケーないTVドラマの映画化だったんだね。

(2005年1月8日 日比谷スカラ座)

「Mr.&Mrs.スミス」公式サイト
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  by tzucca | 2006-01-09 23:55 | → MOVIE

映画「秘密のかけら」

録画しておいた正月特番「古畑任三郎」を続けて観たのね。イチローってば役者としてもカッコええなぁ。表情がいい。複雑な展開を、笑いを交えて分かりやすく組み立てていく三谷さんの脚本もサスガです。
「古畑」の余韻が醒めぬままネットで正月映画の紹介を見ていたら、"複雑な展開と見事な構成"という言葉に目が止まったアトム・エゴヤン監督の「秘密のかけら」。映画好きの間では注目のアトム・エゴヤン監督ですが、僕はどれも未見でした。

a0028078_249144.jpg1950年代のアメリカで人気を博していたコメディアンのヴィンスとラニー。彼らがポリオ患者救済チャリティのテレビマラソン(24時間テレビみたいなもの)のあと、記者会見を開くため到着したホテルの部屋にある浴槽で発見された若い女性の全裸死体。その直後、ヴィンスとラニーはコンビを解消。まだタブロイド誌がセレブのスキャンダルを追う時代でもなく、事件はうやむやのまま闇に葬り去られた。
その15年後、テレソンでポリオが治った感謝を述べて全米の涙を誘った奇跡の少女が女性ジャーナリストに成長し、ヴィンスへ事件の真相を明かす本を出版するためのインタビューを申し込んだ。そこから明らかになっていく、ショービジネス界の闇、秘密をかかえて生きる人間の苦悩、そして事件の真相…。

映画は、ヴィンスとラニーの15年前と現在(70年代)を行き交いながら、女性ジャーナリスト・カレンの視点を加えて、さまざまなパーツを組み合わせながら展開していくんだけど、分かりにくくないんだよね。「古畑」みたいに、パーツの1つ1つが組合わさってひとつの塊になっていくにつれ、意味が深まっていく構成もおもしろかった。映画の冒頭、テレソンのオープニングに登場するヴィンスとラニーの顔が、ショーの前の緊張とは違う表情なのはどうして?からはじまって。
なぜラニーはロブスター料理がきらいなのか、彼らのホテル客室係だったモーリーンはなぜ死体となって発見されたのか…。
事件の真相は、たしかに意外なものでした。

映画の作りは多面的でとてもいいんだけど、ヴィンス=コリン・ファース、ラニー=ケビン・ベーコンの魅力がいまひとつなんだよね。15年後の彼らはいいんだ、でも全盛期の彼らが上り調子のオーラが出てなくて、「謎」に迫っていきたいと思う引力が弱いの。ヴィンスとラニーがマトモな人間すぎたのかも。いや、もうちょっと個性の強い若手役者の方がよかったんだろうな。
一番目を引いたのは、途中で出てくる「不思議の国のアリス」のコスプレをした美少女(謎)。その美少女とジャーナリスト・カレンが、ドラッグで決めて乱れるシーンが見どころになっちゃってる。その場所がハリウッドを見下ろすマルホランド・ドライブのあたりの邸宅で、雰囲気がちょっとデビッド・リンチしているのもいい。

カレンからインタビューを申し込まれたヴィンスが、「客観的な取材ではなく、取材している者がしゃしゃり出てくる」スタイルが流行っているということを言うのね。雑誌「CUT」等に掲載されるアメリカのロング・インタビュー翻訳を読むと、そういう書き方している文章ってほんと多いよね!「誰もあんたがどう思ったかなんて知りたかないのに…」と感じていたので、なるほどこの時期にそういうスタイルが確立されたのかと分かりました。
はじめはインタビュー内容をそのまま書くとフェアな態度を示していたカレンも、だんだん取材対象の世界と同化して墜ちていく様も、ストーリーの1ラインになっています。そう、この映画は何本ものストーリー・ラインが存在するので、あらすじを言葉をちゃんと書くのは難しいですね。あなたが目にする文章化されたあらすじのどれをとっても、映画をきちんと伝えているものはないと思いますよ。

アトム・エゴヤン監督の前作「アララトの聖母」を観たくなりました。


(2006年1月8日 日比谷シャンテシネ1)

「秘密のかけら」公式サイト
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  by tzucca | 2006-01-09 02:39 | → MOVIE

「モーターサイクル・ダイアリーズ」

新年2日目。寒さでだるい。暖房入れて着込んでも寒いって、風邪か?
外に出る気もないので、年越しの大掃除を。気分は猫村さん。
数年ぶりに手を入れたエリアもあって(をいをい)、ゴミ袋の量がハンパない。
いっぺんにゴミ出しできるかなぁ。苦笑。

a0028078_22455544.jpg少しは気分を新たに前向きなキモチになりましょうかのう。昨年見損なって、正月に観ようととっておいた映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」を今こそ観るべきじゃん。先日WOWOWでオンエアされた、この映画のメイキング・ドキュメンタリー「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」と2本立てといきやしょう。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、のちにキューバのゲリラ指導者となった伝説的マルクス主義革命家チェ・ゲバラが、まだ普通の若者だった23歳に、年上の友人アルベルト二人で行ったバイクによる南米大陸横断の旅を描いたロードムービー。
都会の裕福な家で生まれ、喘息持ちの医大生エルネスト・ゲバラが、「この長い旅の間に、何かが変わった」と語った南米大陸の現実を目にした経験。旅をするための旅という、行き当たりばったりの行動の中から、のちにチェ・ゲバラとなる芽が生まれるわけだけど、それはあとになって振り返った時に分かる人生のターニングポイント。現在進行形の状態では、普通の若者二人が旅の苦難を乗り越えたり、見知らぬ土地や人々と出会う喜びや驚きだったり、等身大の人間がそこにいるわけで。
この映画の冒頭に現れる、

  これは偉業の物語ではない
  同じ大志と夢を持った2つの人生が
  しばし併走した物語である

  エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ 1952年

というテロップから分かるように、この映画は伝説の革命家のビギニングを描くわけではなく、その若者の旅はどんなものだったろうという追体験から、自然に二人へ愛しい眼差しを向けていけるものになっていました。

タイトルからすると、南米をずっとバイクで旅すると思っていたのですが、旅の途中でバイクはお釈迦になって、それからは徒歩だったんですね。舗装されていない山道や雪の中をバイクで移動するのは、相当大変だったんだろうなぁ。バイクの性能も、今と比較にならないものだったろうし。
大きな荷物とタンデムで走り抜けていくバイクと南米の美しい景色を楽しめる前半は、観ている方も風を感じなら旅しているかのようなキモチよさ。

バイクはアルベルトのものだったし、年上で処世術に長けていたから、自然とリーダー的立場だったのが、バイクと決別してからはエルネストの静かな熱さが前面に出てきて、リーダーとなっていくのが面白い。
エルネストのバカ正直とも言える実直さが、旅を続けていくうち次第に強くなっていくんだよね。たぶん普通の人だったなら、旅という経験から次第にずる賢く世の中を渡っていくようになるのではないかと思うのだけど、彼の場合は違ってた。
アマゾン川の奥深くにある重度ハンセン病患者の隔離施設でのボランティア活動において、エルネストの真っ直ぐな心と熱さは、患者たちからの絶大な信頼というカタチで圧倒的な魅力になっていく。

エルネストを演じたガエル・ガルシア・ベルナルがとってもイイんですよ。笑顔にやられる。実物のチェ・ゲバラってかなりの男前だし、その見た目も人を惹きつける魅力の1つだったろうと思うけど、あえて実物に似せようとせずに、ガエル・ガルシア・ベルナルのナイーブさとパッションを併せ持つ魅力をそのまま見せたことで、この映画は成功したと思うんだ。喘息の発作で苦しむ演技もリアルだった。
ガエル・ガルシア・ベルナルは、「アモーレス・ペロス」ですごく印象に残った役者さんで、「ハリー・ポッター アズカバンの囚人」監督作の「天国の口、終りの楽園」がすごく評判よかったので、これは観ておかねば!と。あと昨年は「バッド・エデュケーション」も公開されてましたね、これも早くチェックしないと。

ところで「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、内容もさることながら、それを伝える映画手法もイイ感じでした。構図を優先させ被写体を客観的に捉える固定カメラではなく、自分が透明人間になって二人の若者に寄り添り一緒に旅をしているかのような気分になる、ハンドカメラの映像。人の目線で揺れ動く画面が、すごくエモーショナルなんだよね。
あと、旅先で出会った貧しい人々の記憶が、モノクロの記念撮影みたいな画面で表現されていたこと。これ、写真でなく静止した人物のムービーなんだよね。じっとこちらを見ている人々の視線に込められた思いが、「自分になにができるのか」という問いかけにつながっていくのが見事でした。というか、すごく繊細な演出です。

過剰に説明を入れず、起きた出来事をそのまま追体験していくことで、彼らの言う「旅を旅する」感覚を共有できるような錯覚。ある意味淡々としすぎていて、つまらないと感じる人がいるかもしれませんが、僕はこの距離感のとり方に感心しました。ウォルター・サレス監督の目がとてつもなく澄んでいて温かいんだよね。
政治的な背景を丁寧にアク取りされた描き方なので、素直に青春ロードムービーとして観ても、爽快な気分になれる作品です。そして、自分にとっても「自分になにがなせるか」を今一度考えるきっかけを与えてくれる作品でした。

長くなっちゃいました(^^;
もう1本続けて観た「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」は、「モーターサイクル・ダイアリーズ」のアルベルトご本人がまだ存命で、監督や役者に本当はどうだったかをアドバイスしながら、撮影隊と一緒に50数年前の旅を追体験していく様子を追ったドキュメンタリー。たんなる映画のメイキングでないすごく興味深い作品でした。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」が好きな人は、ぜひ。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」角川ヘラルド公式サイト
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  by tzucca | 2006-01-03 21:49 | → MOVIE

「ハリーポッター 炎のゴブレット」

映画版「ハリー・ポッター」シリーズは、これまでほぼ同時期に公開されてきた「ロード・オブ・リング」と比較して、映画としての完成度がイマイチ、原作をはしょりすぎる!
と怒るファンが確実に出るシリーズでございました。
原作をそのままのカタチで映画にはできないので、活字を映像に転化させる力業以外に、原作のエッセンスをどのように再構成させるかの料理法が大切ですよね。
得てして、原作に忠実!を唄った映画ほど原作を超えることができず不満が残り、映画独自の解釈を強調した方が、観客の満足度が高いもんです。

「ハリー・ポッター 炎のゴブレット」はね、なーんも考えずに、2時間35分楽しめましたよ。原作の世界観を映像に転化させることは、シリーズ通して成功しているとは思うんだけど、スケールの大きな見せ場の多い今作でも、活字から思い描いていた頭の中のイメージを「まさにかんな感じでしょう」とスクリーンに再現してくれました。

個人的にですけど、原作では「アズカバンの囚人」が一番好き。「炎のゴブレット」は盛りだくさんな内容なんだけど冗長に感じて、スケールはでかいし登場キャラクターは多いしで、これ映画にできるの?って思ったものでした。
原作を読んだのが随分前なので、適当に内容を忘れていたせいもあり(笑)、映画版「炎のゴブレット」は、エピソードの積み重ね方(はしょり方)とテンポがよくて、多すぎる要素の中で観客の気がハリーから逸れないように、バランスよく料理できてるじゃん!と思いました。

これまでの作品だと、「このエピソードの最後に1言こういうセリフがあれば、もっと分かりやすくなるのに…」というフラストレーションが結構あったんですよ。
今回それを感じなかったのね。映画の中で描ききれる分だけのエピソードを、バランスに随分気を遣って構成しているな、って思いましたよ。ある意味分かりやすく作りすぎなんだけど(笑)広い層に観てもらう映画だから、それでもOKっす。

前作「アズカバンの囚人」は、一部不満や突っ込みどころはあったものの、TVドラマシリーズの総集編のような忙しさから抜け出した、1本の映画として独特の空気感を持つ、キャラクターが生き生きとした青春映画になってましたよね。
それでも「炎のゴブレット」を観た後だと、制作者側は少年期のラストとなるクライマックスへつなげるための前奏として「アズカバンの囚人」を作ったのかもと思えてきたのでした。そう考えると「アズカバンの囚人」で、ダークな世界観を絵として作り出せているのに、邪悪な存在感がないという妙なバランスは意図的だった?なんて思えてきたりして。作り手に甘い発想ですけど(笑)

話を「炎のゴブレット」に戻すと、子供らが成長して演技力がついてきたから、ちょっとした表情やセリフまわしで、より多くのことを表現できるようになったのが、映画としてプラスになりましたね。
ハーマイオニーがかわいい!ってのは一貫した魅力。ハーマイオニー役以外で今後どんな女優に育っていくのか、ちょいと気がかり。イメージができあがりすぎてて。
完全無欠のヒーローじゃなく、ほとんど巻き込まれ型ヒーローのハリー。
ヒーローって自分とは違う自信に溢れた最強な存在だけど、ハリーはそうじゃない。
考えてみれば、正義のために闘うヒーローでなければ、けっこう周りにヒーローっているもんじゃない?自分だけのカリスマ。現実的なヒーロー。
だからヒーローの近くにいる普通の人間に自分を投影させやすいんだろうね。
だから、ロンがいい。前作から光ってきたロンの「等身大の少年さ」がいい感じです。

内容がてんこ盛りなので、映画の中でのバランスを考えて作ってるとさっき書いたけど、残念だったのは盛り上がりのピークを「第3課題」のサスペンスにもっとかけるべきだったかなと思えたこと。ここで観客の緊張感を一度ヘトヘトにした上で、優勝杯をキャッチした後の展開に持っていくべきだと、僕は思えたから。

原作を読んでいた時にひっかかっていたことがあるんです。それは、三大魔法学校対抗試合って、試合の経過を集まった観客が観られないじゃないですか。第一課題のドラゴンとの戦い以外は、集まった観客ははじめと終わりしか観ることができない。すべては課題をクリアしていくハリーのアクションと心の動きで展開されているんですよね。選手の行動を逐次中継してくれる大型スクリーンでもあれば違うんだろうけど、そうじゃないんだもんね。
そういう意味では、そここそ映画としてきちんと描いてあげなきゃと思うんですが、いかがでしょ。ハデなアクションはバランスを考えて短くまとめるとしても、第3課題をもっと怖くハラハラさせる展開にできるのは映画ならではのはずなのに、ちと残念。
あとダンブルドアがね、もっと超越して老いた感じを出してもらいたかったかな。でないと事件に潜む謎に思い悩む、パーフェクトな存在にも老いを感じるという部分が弱かったから。
でも残念に思えたのはそれくらい。ミニシアター系作品のような心のひだに触れるようなものを期待しているワケじゃないので、OKです。

エンドクレジットの長さから、この映画にかかわったスタッフの多さを思い知ります。そして最後の方に登場した「この映画の撮影では、一切のドラゴンを傷つけてはいません」の一文に、ニヤリ。動物が登場するハリウッド映画ではお約束のクレジットですよね(笑)

さぁ、ケーキのような映画から2006年を始めたから、いろんな味の映画を観ていきたいでございます。

(2006年1月1日 ヴァージンTOHOシネマズ六本木・スクリーン2)
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  by tzucca | 2006-01-02 18:51 | → MOVIE

傑作自主制作CG映画「惑星大怪獣ネガドン」

a0028078_2375629.jpg怪獣映画誕生50周年記念作品という冠のこの作品。実写を一切使わず、オールCGの自主制作映画にもかかわらず、見事なまでに往年の東宝怪獣特撮映画テイストを緻密なCGで再現していてビックリ!驚愕!

昭和百年を迎えた近未来。という設定からして、昭和のレトロ感がムンムン。
宇宙空間が黒でなく青だったり、古いフィルムみたいなカラー質感、独特なタイトル文字など、東宝特撮映画テイストがおいしい!
怪獣ネガドンは、たぶん昭和の特撮映画には登場できない変形ぶりですが、発射される光線はキングギドラを彷彿させます。その光線で破壊される日本家屋の飛び散る瓦は、「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964年)に登場する一画面のようで、思わずカップを持つ手に力が入っちゃいました。

a0028078_2382192.jpg25分ほどの作品なので、ドラマ部分は設定をフォローする最低限のボリュームです。前半は「雨」の中展開するため、静かでしっとりした雰囲気。それが、後半一気にテンションがあがって…。
人物のCGは、かなりリアルに作り込んではいますが、やはりちょっと違和感があります。でもドラマの流れで不自然に見えないよう、細かくカットを割りアングルを変え、うまく見せてるなーと感心しました。
ネガドンと闘うロボットは、平成の産物ですね。でも右腕のドリルは「海底軍艦」(1963年)みたいで、をををー!やっぱドリルは最強だぁぁ!男だぜぃ!(^^)

「惑星大怪獣ネガドン」はテアトル池袋で上映され、連日大盛況だったようです。
12/15にDVDが発売されますが、今月いっぱいCS日本映画専門チャンネルで、何度かリピート放送されています。要チェック!そして制作者に大きな拍手を!


惑星大怪獣ネガドン公式サイト
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  by tzucca | 2005-11-20 02:39 | → MOVIE

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